おっさんち


私が育ったその町の、懐かしい風景。
今はもう、誰もが思い出したり、口にはしなくなっている風景。
でもきっと、みんなの心の中から消えてはいないはずの風景。
どうして誰も、あの風景のことを言わなくなったんだろう…。



我家のある住宅地のすぐ近くには大型のスーパーマーケットなどなかったけれど、一本隣の路地に入ると二軒だけ小さな店がありました。
そのうちの一軒は泉屋というタバコ屋で、乾物、菓子、日用雑貨、金物などが一緒に少量置いてあり、今で言うコンビニのような役目を果たしてくれていた古い店。
そしてもう一軒というのが その泉屋の斜め向かいにあり、人々から“おっさんち”と呼ばれていた、これまた古くて小さな小さな平屋のお店なのでした。

周りに整然と建ち並ぶ中規模な住宅に比べると、おっさんちは子供の目で見まわしても本当にひときわ小さい店で、台風がくればたちまち吹き飛ばされるか潰れてしまうのではないかと思うほど貧祖で、壁板の色が鼠色に褪せてしまっている木造の小屋でした。
看板すら無くて、ちゃんとした屋号も無いのでしょう。知らない人が外から見ると店なのかどうなのかさえよくわかりません。

砂埃だらけの磨り硝子がはまった木戸をガラガラ横にひいて開けると、裸電球の薄らぼやけた橙色の光。一歩入るとすぐ6畳ぐらいの土間。
一瞬、湿った土の匂いと、紙やゴム、ビニールや接着剤などの人工的で独特な匂いが混ざり合って鼻腔をツンとつくけれど、なぜかそれは嫌な匂いではなく、どこか懐かしくて落ち着いた気持ちになれる、そんな匂いだったように思います。
セメントで雑に塗り固められた四方の壁にはどこにも窓らしいものが無く、昼間でも暗幕を張りめぐらしたかのような薄暗く狭い世界。
初めて訪れる大人も子供も、その小さい不思議な世界に踏み込んだとたん、驚いて360度を見まわしたのではないかと思います。
天井から、壁から、無骨に剥き出した梁の隅々まで…。
そこには子供たちの心をとらえて離さない、素敵で小さなオモチャたちがビニール小袋に詰められて、ホッチキスで数珠玉のように繋げられ、張り紙のようにベタベタ、短冊のようにブラブラ…あちこちにひしめきあい、所狭しと隙間なく吊り下げられていました。
そう、“おっさんち”は子供たちにとってワクワクが止まらない、夢でいっぱいのオモチャ屋さんなのでした。


オモチャと言っても、トミーのプラレールとかリカちゃん人形、ゲーム機器類なんていうデパートにありそうな高価な玩具はここにはあまりありません。
おっさんちで売っている物は、主としてプラモデルです。
そのプラモデルというのは、乗り物、アニメのキャラクター、軍人や基地、アイドル歌手、機関銃など、どんなジャンルの物も実にたくさんあって児童のあいだではちょっとした有名なことでした。
かなり遠方の小学校の男子までもが噂を聞きつけて、毎日のように自転車でおっさんちに乗りつけてきました。
時々、声変わりをしかけた、ちょっと大人の中学生も来ていました。
当時、女子で小学校低学年から中学年ぐらいだった私などは、あまり大勢の男の子たちが押しかけているようだと店に入りたくても入りづらい雰囲気を感じ、しばらくは戸の外で躊躇することがあったものです。

そんなおっさんちの狭い入口の前には、常に何段階もの変速ギアがついている男児用の黒や緑のサイクリング車がたくさん溢れていて、車道にはみ出すように雑な停め方をしている子供がいるときは、いつも穏やかなおっさんも急に厳しい声色になり、直ちに整えるよう注意していました。
菓子やジュースなどを手に持って、食べながら店に入ることも厳禁でした。
ここの店構えはとても立派とはいえないけれど、品物を汚したり、人に迷惑をかけたりすることはいけないというマナーを、おっさんはキッパリ言葉で示してくれました。
家庭であまり叱られたりすることのない子供でも、ここではみんなが平等に叱られ、あたりまえの事をあたりまえに教わり、ときには少し萎れて出て行く子もいたけれど、みんな素直にそれを受けとめていました。
おっさんは宗教で言えば男子たちにとって教祖のようなものだったので、誰もがおっさんのことを尊敬していたし、おっさんに注意されて逆らう子供は一人もいなかった。
おっさんは、まさに子供たちのカリスマ的存在だったのです。


というわけで、おっさんちは小・中学生の男子たちの、ちょっとした溜まり場になっていました。
私はプラモデルにはあまり興味がなかったけれど、その他のいろいろな細かいオモチャが目当てで、よく弟とここにやってきました。
夏には、ばら売りの花火がたくさんあり、夕方になると母の手を引っ張って連れてきて、近所の友達と一緒にいくつも選んだものです。
――他にどういうものが置いてあったかというと、とても全部は説明しきれないけれど、安くて不思議で楽しいオモチャが何十種類、何百個とあって、それらはお菓子で言うと、きっと駄菓子のようなものだったのでしょう。
パッと思いつくものをしいて言えば、おはじき、ビー球、メンコ、ウルトラマンの怪獣カード、グロテスクな形相のゴムのお面、プラスチックのアニメキャラクターのお面、口髭と丸メガネの変身セット、三流メーカーの薄いトランプ、いろはかるた、本物の蜘蛛やゲジゲジそっくりなゴム製の虫、冷たくてネバネバした感触を愉しむスライム、シール類、天井までよく弾むスーパーボール、君も探偵になれる七つ道具、幽霊や妖怪やガイコツの絵が蛍光塗料で描かれている“レントゲン夜光”という名称のカード(私はこれがかなりお気に入りだった)、シャボン玉作りセット、白い粉を摘みとって親指と人差し指でくっつけたり離したりすると煙みたいなのが指から漂う大魔術セット、紙粘土、紙風船、ゴム風船、チェーンリング、アメリカンヨーヨー、ブーメラン、ゲイラカイト(洋凧)、地球ゴマ…、
などなど、いくらでもきりがないほど何でもかんでもありました。
そう、“きびがら”という薄ピンク、黄色、黄緑色、青色の4色の千歳飴のような棒状の発泡スチロール製の創作用品もありました。
そのきびがらに竹ひごを釘のように突き刺して使うのです。

とにかく、そんなやや大きめのオモチャからキャラメルのおまけみたいに細かいオモチャたちまでが少量づつセットになって、そこいらじゅうの壁という壁にたくさんぶら下がっているわけです。
手の届かない高い場所に下がっている物は、脚立に乗って自分でそれを取るか、危ない場合はおっさんが長い棒の先に引っ掛けて「どれ?」と言いながら取ってくれました。
何十円から高くても何百円のそれらを壁からむしり取って、私たちはよく僅かなお小遣いで買い、はしゃぎながら帰っていったものでした。


おっさんちに入ると、おっさんはいつも右手奥の、そこだけ高床式で大人のヘソの高さぐらいの縁側みたいになっている3〜4畳のスペースに履物を脱いで上がっていて、山積みになったプラモデルの箱に埋もれるようにしてこっちを向いて座っていました。
そして何となく、子供たちが群がる土間のオモチャ売り場よりも高いそのおっさんのスペースには、子供が上がりこんでいくことが許されない暗黙のルールが存在しているような気がしました。
子供たちはみな立ったまま、土間からおっさんのことを見上げるように同じ方を向いてグルッと囲み、それはまるで高い所に置かれた一台しかないテレビを大勢で見ているかのような光景でした。
それぞれ、おっさんが自分に応対してくれる順番を待っているのです。
おっさんは常に質問する子供にプラモデルの作り方を教えたり、うまく作れなかったり壊してしまった子供の玩具を、背をかがめ、目を細めてくっつけるようにして見ながら、道具を使って修理をしていました。


おっさんはいつもその店で一人商売をし、一人で暮らしていました。
おっさんはいつも上下灰色の、作業服のようなものを着ていました。
おっさんは小柄で青白く、とても痩せていて、子供の私からは60歳ぐらいに見えました。
おっさんの声はわりと高くて、か細くて、少しうわずったような、しわがれたような声をしていました。
よくゼイゼイと肺だか気管だかを鳴らして咳こんでいたのを覚えています。
おっさんはいつ買い物に出かけたりするのか、何か食べたり、いつ休んでいたのか、まったくわかりません。
そして、おっさんは何という名前なのか、誰も知りません。
表札もかかってないし、いつからここに住んでいたのか、誰にもはっきりしたことはわかりませんでした。
ただ、いつからかわからないけど、大人も子供もみんながおっさんを「おっさん」と呼び、みんなから親しまれていたおっさん。


そのおっさんへ、いつだったかうちの祖母が梨を剥いて皿に盛り、ご近所どうしの“おすそ分け”のつもりで持って行ったことがありました。
しかしおっさんは、自分は人から物をもらうようなことは絶対にしないのだと、かたくなに断って受け取らなかったそうです。
祖母は、おっさんの質素な生活を哀れんで梨を差し入れたわけではありません。
祖母はそういうおっさんの、生真面目で、頑固で、潔癖で、プライドを強く持っている一面を見て、いい意味も含めた あるショックを少し受けたようだったけど、おっさんの自分流を通した生き方にさらに感心させられていたのを、私は子供心に強く覚えています。


おっさん。
あのおっさんは、どこへ行ったのでしょうか。
いつからいなくなっていたのでしょうか。
私が思春期を迎えた頃にはもう、駄菓子のような安いオモチャたちのことなど、とっくに忘れてしまっていました。
おっさんちがどうなっているのかなど、家族さえもその前を通ることが少なくなっていたので気にしていませんでした。
ただ気がつくと、いつのまにかおっさんのことは忘れていて、いつのまにかおっさんちが取り壊されていて、その後にどこかから引っ越してきたらしい見知らぬ家族が、小奇麗な家を建てて暮らしていました。

おっさんがその後どうしているのか、生きているのか、誰か知っているんでしょうか。
“おっさんち”のこと。



今はもう、誰もが思い出したり、口にはしなくなっている風景。
でもきっと、みんなの心の中から消えてはいないはずの風景。
どうして誰も、あの風景のことを言わなくなったんだろう…。









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