おっさんち



あなたは少し眠そうだ。いや、もう眠っているのか…。
まあそれでもいい。勝手に喋るから、少しだけ私の話を聞いていてほしい。



それはやはり明るい夕方だった。
さっきまで小降りだった雨も止んで、歩くと濡れた土の匂いがしていた。
私はたたんだ傘でツンツンとアスファルトの舗道をつつきながら一人で学校から帰宅した。
自宅の玄関わきにはコンクリート敷きの少し広めの自転車置き場があり、いつも家族それぞれの大きさの自転車が2、3台停めてある。
その時、その隅っこのほうに、なぜか泥で少し汚れたデパートの手提げ紙袋が一つ、不自然にポツンと置いてあることに気がついた。
なんだろう?と思って歩み寄り、何気なく覗き込んだら中には白い大根のようなものが横たわっている。
なぁんだ、大根。お隣からもらったのかな…と、玄関を開けて靴を脱ぎ、「ただいま…」と言おうとした。
その瞬間、フッと奥の居間からトーンの沈んだ会話が聞こえてきた。
「…お姉ちゃんには黙っているんだよ。さっきそこの渡邊さんから電話があってね…  …の道路の前あたりで…  シロは?シロは?って言うだろうけど…  また泣くからね…。」

――え?――
それは、途切れ途切れに聞こえた。
さっきの紙袋の大根の正体が…、なんとなくぼんやりとわかってきた。
私は一呼吸おいてからもう一度、わざとらしくガタガタと靴を脱いで
「ただいまぁー」と家に上がっていった。
「おかえり…」
ちょっとびっくりしたように息を呑んで、家族たちが迎えた。
私は何事も知らない顔で淡々と菓子をつまんだりテレビのチャンネルを変えたりしていたが、私を気遣うみんなの“知らん振り作戦”の団結を思うと、シロが死んだらしいという事実よりもちょっぴり胸の奥が熱くなっていた。

でも、部屋で独りになっても不思議に涙は出なかった。
時間が経つにつれ、子猫だったシロを新宿の高層ビル前のイベント会場で里親を求める犬・猫たちの中から選んで連れ帰ってきたことを思い出していた。
猫をほしがる私のために、新聞記事を読んだ父と母が連れて行ってくれたイベントだったと思う。
白くて小さく、フワッと温かい子猫をボストンバッグに入れ、私はずっとそのピンク色の鼻の頭を小さく開けたバッグの口から覗き込みながら、嬉しくて抱きかかえて帰った。
帰りの電車のガタガタ揺れる中で、シロは怯えてミャーミャー鳴いていた。



そんなふうにシロはやってきて、そしてまだ青年のうちに交通事故で逝ってしまった。
けれどそれからも我家では、何かの機会があるたびにいろんな猫たちを家族の一員として迎え、いくつもの季節を一緒に繰り返していった。
その歴史には、私が貯めたお年玉で知人から譲ってもらって長年飼い続けたペルシャ猫が、お産に失敗して死んでしまったという辛い事件もあった。
その後の数年はショックが大きくて、私たち家族から生き物を飼い、愛するというエネルギーが消失してしまったかのようになり、猫と共に過ごす生活には ずっと何年もの空白ができたままになっていた。


――しかし、いつのまにかその悲しいブランクを乗り越えて、今はまた家族の一員として、なくてはならない輝く存在のあなたがここにいる。
あなたは特に、これまでにも増してみんなから愛され、猫っ可愛がられ、ワガママいっぱい元気いっぱい、自分も人間だと思い込んで暮らしている。

今はもうすっかり中年になり毛並みも薄くなってきたが、以前はもっとスマートなハンサム猫だった。
「おまえはキャットフードのCMに出演できるぐらい美形だねぇ。働いてくるかい?」
と親バカな私たちにとって自慢の息子である、ちょっとアメショー混じりの茶トラのあなた。
特に母はあなたを可愛がり、また あなたも、買い物から帰ってくる母の姿がまだ見えなくても、近くの曲がり角に近づいたらしいその自転車の音を聞きつけてはピクッと顔を上げ、慌てて玄関ドアの前まで走って出迎える。
“犬派”だった父も いつのまにかすっかりあなたの虜になり、あなたの賢さやユーモラスな行動を新聞に投稿して、あなたは写真付きで掲載されたこともあった。

そんな話題性いっぱいの美形なあなただが、じつは身体に一つだけ残念な障害をかかえている。
それは出会った時からすでにそうなっていたことだが、左前足の爪先部分だけが痛々しく切断されている、ということ。
もともとは別の誰かに飼われていたと思われるが、交通事故か虐待か、道路の片隅で重傷を負って彷徨い、衰弱していたあなたのことをいい人が発見してくれた。
獣医さんのもとへ運んでもらい手当てを受けたあなたは、どこの誰なのか、何という名前なのか、全くわからないまま病院に保護され続けていた。
片足の爪先は失くしたが、手厚い看護のおかげで身体はすっかり回復した。
しかし、あなたのもともとの飼い主はいつまでも現れず、引き取り手を探している情報を聞いた母が申し出て、そうしてあなたはうちにやって来た。
甘えん坊の若い雄猫で、私があなたに“レオ”と名づけた。

レオの傷口は手術のおかげで丸く綺麗になっているが、切断面の桃色の肌―皮膚と化したかに見える肉― がツルツルに露出したまま、そこに毛などは生えてくるはずもない。
数年たった現在も片足の先をチョンチョンと軽く地面につけるだけで、ケンケンをしているように歩く毎日。
そんな不自由な前足なのに、庭の枇杷の木を一気に駆け登るすばやさと、スズメやトカゲ、キジ鳩を射止めて持ち帰る腕前ときたらたいしたもので、とても障害があるとは思えないヤンチャな奴なのだ。

そしてここからは、そんなヤンチャなあなたを含め、外へお出かけする全ての猫君たちにこの言葉を贈りたい。


「あなたたちは夢にも思っていないだろうが、私たちは普段からあなたたちが交通事故に遭わないことを、いつもハラハラ祈っている。
愛らしいあなたとの突然の別れがやってくるのは、とても辛いことなんだ。
静かだったこのあたりにも、ここ数年のあいだには渋滞の抜け道として多くのドライバーがやってくるようになった。
あの道路を渡って、あっちへ行ってはいけないよ。
どうか私たちを悲しませないでほしい。
あの日のシロのように、紙袋の底なんかで堅く眼を閉じずにいてほしい。
あの時の我家のように、悲しみを抱えながらも誰かを悲しませないように、取り繕うことなく、気遣うことなく、平和な家族であってほしいから…。」



――私の膝の上に座り込み、ウトウトする あ・な・た、ここまでの話をちゃんと聞いてるの?
あなたは時々耳だけを立ててゆっくりと動かし、まどろみながらも一応は聞いているような顔をしている。
でも、しばらくするとあなたは牙をむいた大あくびとノビをして突然起き上がり、膝の上からトン、としなやかに降りて行った。
そして不自由なほうの前足を使い、すっかり慣れた手つきで得意そうに網戸をこじ開けて家の外へ出て行ってしまった。
長い昔話と、説教が気に入らなかったのだろうか。
ああ、まったく何の用事があるというのか、どこまで外出するつもりなのか、また今日も遅くまで、あなたはなかなか帰ってこないのだろう。



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