それは、すぐ近所に建てた新しい家に引っ越しをした時のことだった。

私たち子供は引っ越しの大変さなんてよくわからない。
お手伝いをしているようでいても大人の邪魔ばかりして、結局は珍しい一大イベントにウキウキ…といったところかもしれない。
普段しまいこんであって見かけない荷物を興味津々に覗き込んでみたり、新しい家の中をはしゃいでバタバタ走り廻ったり、余計なことをして怒られてばかりいる。


そして日差しも傾きはじめ、もうだいぶ色々な荷物が運び込まれて片づきつつあるそのとき、父は最後に自ら運んでいた灯油らしき物の入ったポリタンクを誤って倒し、玄関のタイル貼り部分にその中身を少量こぼしてしまった。
父は慌ててキョロキョロ雑巾などを探したが、こんな引っ越し中になかなかサッサとは見つからない。
そこでとっさに近くに積んであった私のオモチャ箱に手を延ばし、箱から上半身をはみ出して横たわっていた、私が古布で作った人形の“アジュジュちゃん”を掴み出して、それで素早くこぼれた液体をゴシゴシ拭きとったのだ。

アジュジュちゃんは作ったというほどのものではなく、肌着だったシャツを切って てるてる坊主風にしたものに赤茶色の毛糸の髪をまばらに縫いつけ、古く厚ぼったい深緑色のカーテンの切れ端を体に巻きつけて洋服にしてあげた程度のもの。
体長は30数センチぐらい。
とても地味で体裁の悪い子だけど、哀しい時にギュッと抱きしめると柔らかくてなんとなく気持ちが安らいだし、我が家の昔からの懐かしい匂いも ほんのりとした。
油性マジックで顔を書いたら ちょっぴり暢気な表情に愛着がわいて、彼女はいつしか私のなくてはならない大切な友達になっていた。

私はあまり一瞬のことにアッ!!と思ったが、愛嬌のあるその笑顔はすでに砂埃と灯油にベットリまみれて無惨に真っ黒くなっていた。
そして、なんと父は玄関前の細い私道でゴミ屑などを燃やしていた焚き火に向かって、その人形をおもむろにポーンと放り投げたのだ。
「ああ…! あれ、私の… 私の… 人形…!」
驚きと深い悲しみで、とてもとても小さな声が半分ぐらいしか出なかった。
「また作ったらええやんか…」
関西弁で父はそんなふうに言ったと思う。
急なことだし悪気などもちろんなかったはずで、父から見れば それはどう見てもボロ布にしか見えなかったのだろう。



オレンジ色の大蛇がくねくねと踊るように炎が揺らめく中、私に向かっていつもと同じようにニコニコ微笑んだままのアジュジュちゃんが背中を反らせたりお腹をよじったりさせながら、メラメラ・パチパチと勢いよく音をたてて灰になっていく…。
あれよ あれよという間に、彼女は黒煙とともに遠い空へ消えていった。
私の両目からは涙がじんわり溢れた。
「アジュジュちゃん…」
そして喉が急激に熱くなって、何かがつっかえたような、詰まったような痛い感じがした。
悲しみがギュ〜ってこみ上げるときって、こんな感じになるのかな。
「アジュジュちゃん…さようなら。遊んでくれてありがとう…。」
そして私はどんどん悲しくなって、やっぱりこの程度なんかにこらえていられなくなって、うつむいて口をへの字に曲げ、もっともっと泣き出していた。
家族や引越しを手伝いに来てくれていた知人たちは そんな私を見て慰めるほどのこともないけれど、ちょっと気の毒そうに苦笑しているようで…私はそんな周りの気まずい空気を感じながら、声もたてずにシクシクと泣き続けた。
ただただ炎に包まれていたアジュジュちゃんの笑顔がひどく悲しく、だけど何も言えず、父に少しの抗議や怒りをぶつけることもできない自分自身に対しても情けなかった。


弟は、
「ああ…お姉ちゃん、泣いちゃった…」
と言って心配そうな、しかし面白そうなかんじでもあり、不思議な表情で私のことを見ている。

私は泣きながら新しい家の中に一人ですごすごと上っていき、まだ見慣れないピカピカした洗面台の鏡に映った自分の顔を見た。
新しい環境の新しい建具の匂いが凛と立ちこめる中、私はいつもきまって泣くと両目がウサギのように真っ赤になっているのをぼんやりと見つめた。
そして しばらくしてだんだん気持ちが落ち着いてくると、泣いてしまった自分のことが少しだけ恥ずかしくなった。

今日は一大イベントで浮かれた引っ越しのはずだったのに、なんだか思いがけず悲しい日になってしまったようだ。



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